ショパンのノクターンの中でも、最も広く知られる曲。


ノクターン第2番変ホ長調op.9-2.は、いきなり有名なメロディーから始まる。


始めの出だしが重要だ。




一息つき、集中力を高め♭シから音を繋いでいく。そして、控えめに左手が波のように三拍子を刻むのである。






怜香がこの曲を発表会で弾いたのは小学5年生の夏の頃だった。

この頃から負けん気が強く周りの男の子とケンカをしたりの少女時代であったが、少年時代と言い換えて良いほどの子供時代であった。




しかしそんな少女も、ピアノを弾けるだけで、自分を見る周囲の目がまるで違うので、一生懸命練習していた。



一生懸命だったのには、もう一つ理由があった。



父親が関係している。





幼い頃から少年のような少女は父親の右隣を常に確保していた。
いつもベッタリ張り付くように。

快楽主義なのは、父親に似たのかもしれない。

とにかく父が大好きで怜香は子どもながら父と結婚したいと意欲を燃やしていたほどであった。



いつも右隣は自分でなければ許せなかったのだ。





「怜香、あの曲を弾いてくれないかい?お父さんはあの曲が大好きなんだ。」

休日の昼間、新聞を読みながらコーヒーブレイクをしていた父は怜香に言った。



面倒くさそうに切り返した。


「えーまた?もうこの曲、飽きたぁー!


他にもたくさん練習してるのよ?


出だしだけだけど、幻想即興曲も‥ほらね?」


父には言いたい放題で、ワガママな娘だった。




「他にもやってるの、ええっと、モーツァルトのこの曲も!


簡単に聴こえるけど、これすごく難しいって先生が言ってたのよ。」





間違えながらも、一定のテンポを崩すことなく、全部弾いて見せた。





時に強引な弾き方をしたり、外れて違う曲になったり‥



一通りの暴挙をピアノの上にさらけ出し、娘は《どうだ》と言う顔で父親を見た。



そんな強気な態度は一体誰に似たのか‥と父親は笑って言った。








「いいかい?怜香が弾くノクターンが一番好きなんだ。キラキラした音で、あの曲をとっても綺麗に弾いている。


お父さんはあの音色を聴いてピアノは宝石箱なんじゃないかって思ったんだ。

ほらピアノは確かに蓋もついているしね。


音の一つ一つがパールだったりダイアモンドのように輝き散りばめられている。



これは怜香じゃなきゃできないことかもしれないな。


きっと怜香の指は特別なんだよ。お姫様の指は次は何の音を宝石に変えるのかな?」



怜香は目を輝かせた。






誉めてもらえば上機嫌の単純なお姫様だった。


押しつけるでもない、否定することもない優しい父の誘導で♭シの鍵盤に素直に指を落とす。





純粋な感性が音となって部屋の空気を揺らしていた。








怜香は子どもながら、上手に旋律を歌い時に悩ましい空気も醸し出す、ピアノで歌うのが上手なタイプの弾き手であった。



しかし、子供の手では弾きづらいこの曲は、ところどころ音がカットされていた。左手のさざ波は一向にさざ波あった。








父に美しい波を持つショパンを聴かせるために、怜香は自分の小さな手が早く成長することを願っていた。



あれから十数年の月日が経つ。



大人の女性へと成長し今、お姫様の手の大きさはショパンとほぼ同じ大きさだった。